「明治稀代の毒婦」と呼ばれ、“斬首刑となった最後の日本人女性”として知られる高橋お伝(たかはしおでん、1850~1879)の墓が、谷中霊園の一角にあります。
お伝が毒婦と言われるようになった理由が、墓の傍の説明板に書かれていました。
「最初の夫、浪之助が悪病にかかり身体の自由を失ったのでこれを毒殺し、他の男のもとに走り、その後、各地を放浪しながら悪事を重ねた。明治九年、浅草蔵前の旅館丸竹で、古着屋後藤吉蔵をだまして殺害、所持金二百両を持って逃走、京橋新富町で捕らえられ、同十二年、三十歳で死刑に処せられる」
しかし、これはお伝をモデルにして、河竹黙阿弥が書いた歌舞伎狂言「綴合於伝仮名書」による脚色であり、実際のお伝はまったく違うタイプの女性だという説があります。
お伝は、ハンセン氏病(らい病)にかかった愛する夫を亡くなる日まで手厚く看病し、生きていくためにやむなく商人の囲い者となり、やがて同棲した男を食わせるために売春婦にまで身を落とす。そして金に困り果てた末、とうとう強盗殺人を犯してしまった、というもの。
もし、お伝が後者のような女性であったのなら、本当に気の毒としか言いようがありません。
特に、手厚く看病した夫を「毒殺した」などと言われては、それこそ死んでも死に切れないというものでしょう。
実は谷中の墓にお伝はおらず、南千住回向院(荒川区南千住5-33-13)に眠っているそうです。
谷中の墓のほうは、お伝を毒婦に仕立て(?)てひと儲けした河竹黙阿弥が、申し訳ないと思ったのか、祟られたら嫌だと思ったのか、立てたものだそうです。
どちらが本当のお伝なんでしょうか。
いずれにしても、貧しさが生んだ悲劇には違いありません。
墓石には、次のような時世の歌が刻まれています。
「しばらく望みなき世にあらむより渡しいそぐや三津の河守」
しかし、これも本当にお伝が詠んだものなのか、はっきりしないそうです。
谷中霊園
台東区谷中7-5-24
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